2016年11月19日土曜日

平等性と公平性

今日は、ちょっと長くなりますが、平等性と公平性について真面目なこと書きます。

平等性(equality)と公平性(equity)は似ているようで全く違うんですね。
開発学の分野でも議論途上の概念なので、明確な定義はまだありません。


あくまで仮ですが、配り方にのみ焦点を当て、その違いを書いておくと、
平等性というのは、同じものを同じだけ「配分」すること。
公平性というのは、各人のニーズに応じて「分配」すること。


ちょっとややこしいですが、たとえば、ある家族でリンゴを食べるときに、
等分に切り分けて、全員が同じ量を食べられるように配慮するのが平等性。
それに対し、リンゴが大好きな弟には3ピース、ごはん食べ過ぎてお腹いっぱいのお母さんには1ピース、硬いものが食べられないおじいちゃんにはすりおろしリンゴ、などと配慮するのが公平性。

つまり、不平等と不公平は時に矛盾するんですね。ひとりひとりの受け取る資源が異なる場合、それは「不平等」であるけれど、「不公平」かどうかは、また別の問題だということです。


で、プロポーザルを書くにあたっても、結構このことで衝突します。というのも、これまでADEOからの支援が特定のグループに集中していて、支援の届かない人から「不公正(unfair)だ!」という不満を聞いたからです。

ブシアオフィスのボスなんかは、「全員を支援することなんて不可能なんだから、不満が出るのは仕方がない」と聞く耳を持つ気すらない感じです。私個人の考えでは、確かに、不平等(unequal)なのは仕方がない、というかニーズはそれぞれ違うので、平等である必要はないとさえ思う。だけど、公平性(equity)はやっぱり考えないといけない。と思う。


それでまあ研修の後半あたりは、公平性を、どうやったら達成できるんだろうか、てゆうことを考えていたわけです。で、たぶん、究極の公平性を求めるのであれば、ひとつひとつの家庭の既存の経済力と見込みの経済力を、数値化して、その差異を均すように資源を分配すれば良いんですね。しかしまあ、間違いなく途方もない作業です。なぜかって、彼らの有している資本が多種多様で、かつ不安定であるからです。


そんなわけで、「どう配るか」という点に焦点を当てて公平性を目指すことはやめました。「どう配るか」ではなく、関係する人たちが「配り方に納得するか」という部分に焦点を当てることにしました。

なぜなら、公平性というのは、それが担保される状態のことを指しているけど、「どう配るか」という資源の配り方だけを問うているのではなく、その配り方に周囲の人が「納得するか」ということを問う必要があるのだと思うからです。そこでは、関係する人たちの、公正性(fairness)の感覚が大切で、配られる資源が不平等であることを、いかに各人が納得できるか、という点に影響を受けます。


たとえば、先ほどのリンゴも、「なんでおじいちゃんだけ、すりおろしリンゴなの!?」と不満を持つ家族がいれば、それは、公平性が担保されたとはいえない。だけど、「おじいちゃんは、硬いものが食べられないから、すりおろす必要があるのね」との共通の合意があれば、公平性が担保されたと考えられる。つまり、資源の配り方は同じであっても、それに関係する周辺の人が「納得するか」どうかによって、公平性が担保されたかどうかも左右されるのだと思います。


この「納得するか」という基準は、とても曖昧で、数値化できる性質のものではないし、もちろん完璧を目指すことはできません。これを承知のうえで、この微妙な感覚を大切にしたいと思う。


そんなこんなで開発の世界も奥深いですね。

これ以上書くと長くなりすぎるので、強引にまとめてみました。



ところで帰国します。もうちょいで空港に向かいます。


日本、すでに寒いそうですね。アホみたいな恰好してるので、凍えると思います。
日本に帰ったら、録画している真田丸を一気に見てやります。楽しみです。

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