2016年9月14日水曜日

誰が支援を受けるのか

私はケニアが好きでケニアに来てるけど、
これまで、開発、支援、協力、そういった言葉で語られるものの多くを避けてきました。

なんで、その村なのか?
「HIV陽性者が最も多い村だから」

開発とか、支援とか、協力とか、そういった分野では、こういうことがよくある。

一つ目に、分かりやすい、ラベリング。
二つ目に、「最も」どうであるか、ということ。

一つ目、ラベリングについて。
例えば、「HIV陽性者」、「孤児」、「難民」、「障害者」、「少数民族」、などなど。
こんなラベルを貼っつけたような分かりやすい「脆弱性」。だけど、彼らの抱える困難はラベルを張ってカテゴライズできるものではなく、もっともっと個別具体的で質的。そして、ラベルのない「ただの貧しい人」が、たくさんいるのに忘れてしまう。

二つ目、「最も」どうであるかについて。
例えば、HIV陽性者が「最も多い」村だから。じゃあ2番目に多い村は?3番目に多い村は?ということになる。
「最も多い」村を選択し、そして介入することによって、新たに不公平が生じる。効率性が重視されると、やっぱり見えなくなるものがある。


「困っている人」を分かりやすく発見しドナーにアピールしなきゃいけない援助の現場では、支援する対象者が、「選ばれる」。そして支援の実現可能性が問われる。だけど、実現可能性がある時点で、その場所は既にある程度しんどくない。


必要性は、分からないわけじゃない。
援助や支援は、すでに市場経済の一部になっているし、今さらこれらの全てを批判しても仕方がない。

なんかでも、やってることと考えてきたことが矛盾しすぎてる気がする。

プロポーザルを書くこと自体の是非は、考えると終わらなくなると思うので保留している。
でも、開発、という介入に伴う暴力性とか、もっとマクロに俯瞰したときに見えうる問題点を、見ないようにしているだけで、なんか結局矛盾だらけな気がする。

机上で考えて批判するだけではなく、自分でやって批判するという点で、意味はあると思うけど、
なんともいえない微妙な感情がある。

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